みなさんは、「メタファー」という言葉をご存知だろうか。
簡単にいうと、白い肌を「雪の肌」と言うようなもので、人間の概念思考に常に付随しているものだと思う。
一般的な意味のそれと合致しているかはわからないが、私の解釈はこの程度だ。
村上春樹は著書「ノルウェイの森」で、「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。綺麗に壁土を塗っているみたいで」と綴り、キング牧師はあの有名な演説で、「黒人たちは物質的な繁栄の広大な海に浮かぶ貧困という島で暮らす」と、人種差別について、こう表現した。
ここで私も続けて、16年目に突入する大好きなサッカーをメタファー表現によって云いたい。
「サッカーとは寸足らずの毛布である」
村上春樹、キング牧師の後にいった割に、ショぼい迷言やな感、が漂いますが、これは部員ブログだ。そういう迷言も云っていいと解釈している。
メタファーとはそもそも暗喩。
一見、読者や、聞き手からすれば、分かりにくい表現ではあるが、意味が明白でない代わりに、その雰囲気を奥深く味わうことが出来るというものだ。
先日、筑波遠征に参加した。
初日の試合前、私はみんなにある声をかけた。
「試合開始5分は、セーフティーに行こう」
「プレスの距離を相手にぶつかるくらい縮めて、守備からリズムを作ろう」
そういった、サッカー経験者ならば誰でも聞いたことのある非常にシンプルなことだったように思う。
一緒に遠征に参加したメンバーは、私と同様、大学の部活でやるくらいサッカー馬鹿の集まりだ。
そんなみんななら、理解しきっているであろうありきたりな声かけをしたわけだが、結果は前半2分に失点。
失点後は自分たちの流れとするも、そのまま0―1で初戦を落とした。
わかりきっていても、その意識とは裏腹に思うようには行かず、その1点が勝敗を分けた。
これはほんのごく一例に過ぎないが、サッカーとは決して一筋縄では行かない。そう「寸足らずの毛布」なのだ。
うまくいかないことが多いからこそ、うまくいった時のあの感じといったら、言わずもがなであろう。
そんなサッカーも本気でやることが出来るのは、あと1年となった。
メタファー以上に私の生活に付随してきたと言っても過言では無いサッカーを軸に、私はたくさんのことを学んできた。
本当にたくさんの事を。
サッカー無しに今の自分はないと言えるほどに。
小・中ではクラブチームに入れてもらい、高い月謝を払ってくれた親が、たまに言い放つ言葉があった。
「なにも、サッカーが上手くなって欲しくて、やらせてるわけじゃないんだよ」
今になって、サッカー本気でやれるのがラストイヤーになって、その言葉の重みとサッカーに対する真の想いを理解できそうな気がしている。
私達は、大学の4年間をサッカーというひとつのものに捧げている。
少し大袈裟になったかもしれないが、多くの事を犠牲にしてやっているからこそ、得るものが肥大すると信じている。
私はそんな大切なラストイヤーを今いるサッカー馬鹿な仲間と共に過ごせること、みんなとあと1年、本気で闘えることが本当に嬉しい。
これまでのサッカー人生、妥協の要因を外的要素に帰したり、合理化してその場しのぎをすることもあった。
結局のところ、松の木に桜の花を求めるのは無理なわけで、過去の想いのつじつま合わせみたいに自分の現状を正当化することしかできないかもしれない。
けれども、ラストイヤーを変えることはできない。大学の最高学年として、自分にできることを全うするしかない。
AチームからDチーム、社会人チームを経験したからこそ、部員全員が勝つことに執着できる雰囲気を作ることに貢献するしかない。
チームの為に日々動いてくれている幹部やスタッフの力になるしかない。
部員各々が様々な場面で、基準を上げて挑戦していく他に道はない。
今年の高知大学サッカー部のテーマは『挑戦』
そのテーマに競り負けはしたが、堂々の得票数第2位と迫った『高知一枚岩』 (私の発案)
『高知一枚岩な挑戦』
最高の仲間とラストイヤーを飾りたい、そんな所存である。
大久保 遼 (新4時生)
筑波遠征帰りに立ち寄った木梨サイクル
一人暮らし男子大学生のトイレ設置物の一例
簡単にいうと、白い肌を「雪の肌」と言うようなもので、人間の概念思考に常に付随しているものだと思う。
一般的な意味のそれと合致しているかはわからないが、私の解釈はこの程度だ。
村上春樹は著書「ノルウェイの森」で、「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。綺麗に壁土を塗っているみたいで」と綴り、キング牧師はあの有名な演説で、「黒人たちは物質的な繁栄の広大な海に浮かぶ貧困という島で暮らす」と、人種差別について、こう表現した。
ここで私も続けて、16年目に突入する大好きなサッカーをメタファー表現によって云いたい。
「サッカーとは寸足らずの毛布である」
村上春樹、キング牧師の後にいった割に、ショぼい迷言やな感、が漂いますが、これは部員ブログだ。そういう迷言も云っていいと解釈している。
メタファーとはそもそも暗喩。
一見、読者や、聞き手からすれば、分かりにくい表現ではあるが、意味が明白でない代わりに、その雰囲気を奥深く味わうことが出来るというものだ。
先日、筑波遠征に参加した。
初日の試合前、私はみんなにある声をかけた。
「試合開始5分は、セーフティーに行こう」
「プレスの距離を相手にぶつかるくらい縮めて、守備からリズムを作ろう」
そういった、サッカー経験者ならば誰でも聞いたことのある非常にシンプルなことだったように思う。
一緒に遠征に参加したメンバーは、私と同様、大学の部活でやるくらいサッカー馬鹿の集まりだ。
そんなみんななら、理解しきっているであろうありきたりな声かけをしたわけだが、結果は前半2分に失点。
失点後は自分たちの流れとするも、そのまま0―1で初戦を落とした。
わかりきっていても、その意識とは裏腹に思うようには行かず、その1点が勝敗を分けた。
これはほんのごく一例に過ぎないが、サッカーとは決して一筋縄では行かない。そう「寸足らずの毛布」なのだ。
うまくいかないことが多いからこそ、うまくいった時のあの感じといったら、言わずもがなであろう。
そんなサッカーも本気でやることが出来るのは、あと1年となった。
メタファー以上に私の生活に付随してきたと言っても過言では無いサッカーを軸に、私はたくさんのことを学んできた。
本当にたくさんの事を。
サッカー無しに今の自分はないと言えるほどに。
小・中ではクラブチームに入れてもらい、高い月謝を払ってくれた親が、たまに言い放つ言葉があった。
「なにも、サッカーが上手くなって欲しくて、やらせてるわけじゃないんだよ」
今になって、サッカー本気でやれるのがラストイヤーになって、その言葉の重みとサッカーに対する真の想いを理解できそうな気がしている。
私達は、大学の4年間をサッカーというひとつのものに捧げている。
少し大袈裟になったかもしれないが、多くの事を犠牲にしてやっているからこそ、得るものが肥大すると信じている。
私はそんな大切なラストイヤーを今いるサッカー馬鹿な仲間と共に過ごせること、みんなとあと1年、本気で闘えることが本当に嬉しい。
これまでのサッカー人生、妥協の要因を外的要素に帰したり、合理化してその場しのぎをすることもあった。
結局のところ、松の木に桜の花を求めるのは無理なわけで、過去の想いのつじつま合わせみたいに自分の現状を正当化することしかできないかもしれない。
けれども、ラストイヤーを変えることはできない。大学の最高学年として、自分にできることを全うするしかない。
AチームからDチーム、社会人チームを経験したからこそ、部員全員が勝つことに執着できる雰囲気を作ることに貢献するしかない。
チームの為に日々動いてくれている幹部やスタッフの力になるしかない。
部員各々が様々な場面で、基準を上げて挑戦していく他に道はない。
今年の高知大学サッカー部のテーマは『挑戦』
そのテーマに競り負けはしたが、堂々の得票数第2位と迫った『高知一枚岩』 (私の発案)
『高知一枚岩な挑戦』
最高の仲間とラストイヤーを飾りたい、そんな所存である。
大久保 遼 (新4時生)
筑波遠征帰りに立ち寄った木梨サイクル
一人暮らし男子大学生のトイレ設置物の一例

